アンブレラ

 ラプラス計算科学研究センターは今日も忙しなく職員たちの声や足音で賑やかだ。ルードヴィヒも彼彼女らに道すがら軽く挨拶をしつつ目的地へ向かっていた。
 昨日エニグマ──アドラー・ホフマンから提出された研究予算の項目について一部不備があり、書類の確認をしてもらうためである。実のところ通信機で済ませられる範囲ではあったが、かつて施設長であったルーシーの長期不在によりエニグマがその代理を務めることとなり多忙を極めていること、加えて彼が出不精なきらいがあることから「人道的配慮」に基づき、直接顔を合わせて話をする必要があると思ったのだ。
 施設内の広い吹き抜けを背に目的地に到着したルードヴィヒは扉を三度ノックした。
「ミスター・アドラー、ルードヴィヒだ。午前中に連絡した書類の件で来たのだが」
 数秒待ったがノックの音は宙に吸い込まれ、隔てた扉の向こうからは無音しか返してこない。仕事に集中しているのか、あるいは。
「……入らせてもらうよ」
 オフィスの主からの返事を待たずにルードヴィヒが扉を開けると、陽も差さない薄暗いオフィスが彼を迎え入れた。
 以前、ルードヴィヒ自身のオフィスを見たエニグマから「俺のオフィスより酷い有様だ」と苦言を呈されたことはあったが、まだ足の踏み場があるだけいいのではないかと思った。相変わらず山のように積まれた書類やクロスワードの紙、パズル玩具、Xから押し付けられたであろう発明品などで埋め尽くされている。つまりはオフィスというよりは物置である。
ルードヴィヒはため息をつきながらオフィスの主を探した。
「ミスター・アドラー……かくれんぼでもしているのかね」
 足元にあるものを踏まないよう書類の海をかき分けていると、部屋の片隅に影が見えた。
 やや低めの棚ほどある情報処理装置の箱を背に座り込み、項垂れているエニグマがそこにいた。
「……」
 これだけ近づいても微動だにしない彼の前にしゃがんで顔を覗き込む。伸びた前髪の隙間から見える琥珀色の瞳は閉じられ、その下には隈ができていた。眠っている時でさえ眉間に皺が寄っている。
 今は業務時間であるが「人道的配慮」から起こさないべきかを迷っていると、呻き声と共に彼の口から言葉が小さく発せられた。
「姉、さん……」
 夢でも見ているのだろうか。それはまるでひとり遠い場所に置いていかれた子供のような声だった。
 ウィーンにてストーム調査に出向いていた財団調査員である彼の姉──グレタ・ホフマンが命を落としてどれくらいの月日が経っただろう。ルードヴィヒは書類上でしか顛末を知らないが、死に目に会えなかった彼の心情を思えば軽率に慰めるなどという行為さえ憚られる。もっともその行為自体、彼自身に拒まれそうではあるが。
 そんなことを考えながらエニグマを起こそうと彼の肩に手を置いた時、ルードヴィヒは思考に靄がかかるような感覚に陥った。これは──
「……っ、」
 咄嗟にエニグマから離れたルードヴィヒは自らの体が傾ぐのが分かったのを最後に、視界は黒い煙に奪われた。

§

 何かが倒れたような音でエニグマは驚いて目を覚ました。その時初めて眠ってしまっていたことに気づき、寝起きの頭を無理やり振った。
「……クソッ、寝てる場合じゃないってのに」
 内容は覚えていないが、夢見が悪かったことだけは分かる。こんな場所で惰眠を貪れば悪夢も見るというものだ。
「……?」
 思考が鮮明になるにつれ、オフィス内の異様な光景に目を見張る。照明はついているはずなのに妙に部屋が暗い。否、暗いというよりは煙たい。それなのに火の気配や熱、焦げ臭さは感じない。  眉を顰めながら立ちあがろうとしたエニグマは、足元に黒い羽根が一枚落ちていることに気づく。これは──
「ミスター・ルードヴィヒ、来てるのか?」
 そういえば午前中に書類不備の件でこっちに来るとか言ってたなと思い出す。加えてこの状況は身に覚えがある。視界が悪く、今さらながら物を整理していればよかったと身なりを整えつつ立ち上がって舌打ちした。その瞬間のことだった。
「──ッ!?」
 重量のある何かに床に押し倒され、視界が一転した。背中を打ちつけた衝撃でエニグマは一瞬息が止まり、同時に仰向けになった自分の上に黒い巨大な何かに乗りかかられているのが見えた。それはエニグマの背丈の倍のサイズはあろうかというカラスの影だった。上司である「人型」のそれではない。
影であるにもかかわらず、爪が胸に食い込んでいる様が見て取れた。
「ぐっ……!」
 押さえつけられているカラスの脚首に手を伸ばしてどかそうと試みるがびくともしない。圧迫されて余計に息が吸えずエニグマは苦しげに顔を歪めるが、酸素供給がうまくいかない頭で状況を整理した。
 これは間違いなくルードヴィヒの使い魔だ。そして今、ルードヴィヒ本人もこの部屋の何処かにいて「魂の旅」とやらに出かけてしまっている。時間が経てば元に戻るのかもしれない。しかしそれがいつなのか分からない。
 以前も似たような状況になったが、あの時はここまで巨大でもなく、すぐに本体が魂を戻していた。
あの時、ルードヴィヒは何と言ったか──
「──っ、Seelentausch!」
 エニグマ自身にも馴染みのある言語で、一か八かで祈るような気持ちで叫んでみた。当然ただの人間の言葉など何の効果もなく、影は微動だにしない。やはり本人の術式発動でなければ意味がないのか。
 最悪なことにカラスの使い魔はエニグマの声に反応したのか、身を屈めて顔を近づけてきた。嘴は彼の瞳に迫っている。そういやカラスは光る物に反応するんだった、などとどうでもいい知識が頭によぎった。
 更には屈まれたことで更に体重がかかることになり、エニグマの胸に食い込んだ爪の下の骨がミシ、と悲鳴を上げる。オフィスに目玉を啄まれた見るも無残な自分の死体が転がっているイメージが明確になりかけたところで、凛としたテノールがエニグマの鼓膜に響いた。

『──Seelentausch!』

 影は跡形もなく消え去り、そこには激しく咳き込むエニグマが残された。
「ッゲホッ、ゴホ……っ、さすがに、『死因は巨大カラスによる圧迫死』なんて、報告書に書かれたくねぇな……」
 上半身を起こし、痛む胸を押さえながら息を整えているエニグマの側に元凶がのっそりと姿を現した。
「すまない、ミスター・アドラー。……大丈夫かね」
 表情は分かりにくいがひどく申し訳なさそうな雰囲気だけは伝わってきて、命を脅かされた怒りを通り越して呆れてしまった。
「幽体離脱は自分の意思じゃどうにもならないことは理解しているが……俺に何かあったときはあんたを次のラプラスの代理責任者にするよう遺言書に書いておくぜ。ミスター・ルードヴィヒ」
 書類に不備があった代償がこれではお釣りがくるというものだ。とはいえエニグマ自身も寝こけてさえいなければ、死にかけることもなかったのだが。
「はは、肝に銘じておくよ」
「……」
 笑い事ではない、と反論したくなったがこの反理想主義者な烏頭には何を言っても暖簾に腕押しでしかないことは分かっているため、エニグマはひと睨みするだけに留めた。これがもし相手が磁性流体の同僚であれば話は別だっただろう。
 座り込んでいたエニグマを立ち上がらせようとルードヴィヒは右手を差し出した。差し出された手を素直に掴むと、思いの外強く引っ張られてエニグマはバランスを崩し前につんのめる。
 あわや今度は自分が下敷きにしてしまうかと体が強張ったが、引っ張り上げた本人は一緒に倒れることはなかった。その分重力に逆らうことなくそのまま彼に体を預けるような体勢になってしまった。
「!……悪い」
 慌てて離れようとするエニグマにルードヴィヒは神妙な面持ちで手を掴んだまま離そうとしない。
「ミスター・ルードヴィヒ?」
「……ミスター・アドラー、君は体格の割に体重が軽すぎないかね」
「は?」
 なにを言い出すかと思ったらそんなことか。
八年間、土の中のモグラよろしく引きこもっていた上に、特段鍛えているわけでもない。
「いや、あんたからしたら俺みたいな人間は全員こんなもんだろう」
 華奢という意味ならXやメディスンポケットのほうがより該当する。女性陣なら尚更だ。
「それとも『人道的配慮』ってやつか?俺のことより、あんたはもう一度リハビリセンターに行って使い魔たちを躾直してきてくれ。会う度にこれじゃ俺の命がいくつあっても足りない。……というか来てもらっておいてなんだが、確認だけなら別に俺のところに来なくても館内通信で済ませりゃよかったんじゃないのか」
「気遣いはありがたいが、先ほどの様子を見ると通信にも出られたかどうか怪しいがね」
「……」
ぐうの音も出ない。エニグマは気まずそうな顔で押し黙る。反論がない彼にルードヴィヒは更に続けた。
「忙しくさせているのは申し訳ないと思っているよ。……それに、どうやらあまり眠れていないように見える」
 掴んでいた手を離し、そのままエニグマの前髪に触れてそっと掻き分けた。先ほどよりハッキリと目の下の隈が現れる。
「……元々そんなに眠りが深いほうじゃないから問題ない」
「慢性化はよくないな。君こそ一度ミス・メスメルのところで治療してもらうといい」
「それは遠慮する。どれだけ時間がかかるか分かったもんじゃねぇ……もういいだろう。そろそろ仕事の話をしようぜ」
 髪に触れられていたルードヴィヒの手をやんわりと払いのけ、エニグマは書類を確認するため机の上を軽く整理し始める。その背にルードヴィヒは言葉を投げかけた。
「『姉さん』」
 さして大きな声でもないのにやけに室内に響いたそのひと言にエニグマはビク、と動きを止める。
「私が来訪したとき君は眠りながらそう言っていた」
「……聞いたのがあんたで良かったよ」
 小さくため息をついて振り返り再びルードヴィヒに向き直るが、その視線は彼を通り過ぎ、扉の横に立てかけてある一本の平衡傘に注がれていた。
 姉が命を賭して守ったもの。それは尊くもあり、残酷な結末をエニグマに遺した。
「あの日、レディZがここに来たときのことを繰り返し思い出す。訃報を告げにきた彼女が、俺には巨大な鎌を持っている死神に見えた」
「……」
「わかっている、彼女のせいじゃない。責任転嫁もいいところだ。そして俺はミス・マーカスにさえ怒りを覚えた。なぜ……死に目に会えたのが、俺ではなかったのかと」
 それは子供じみた嫉妬でもあった。だがすべてただの八つ当たりにすぎない。フラッシュバックのように当時を思い出すエニグマの表情は更に曇り、声音は低く掠れていく。
「ミス・ルーシーから、グレタとミス・マーカスにウィーンでの外勤調査の任務を依頼したと聞いたとき、俺は興味すら持たなかった。立場が違うと、一蹴して。危険な状況も有り得ると分かっていたはずなのに、俺は……すぐ、戻ってくると……」
 迷える暗号学者は懺悔をするように徐々に俯き、頭を抱えて言葉を紡いだ。
 後悔と自責の念に駆られ、もはや独白と化した言葉をぶつけてしまっているエニグマに、ルードヴィヒは静かに応える。
「……君は、ちゃんと悲しんだのかね。自分自身を理屈や理性で押さえつけるのではなく、感情で」
「それ、は……」
 泣き叫んでも、怒りをぶつけても、グレタはもう二度とこのオフィスの扉を開けることはない。それは覆しようもない現実であり、言葉で埋まることのないクロスワードのように暗号学者の心を黒く塗りつぶしていく。
 俯いたままのエニグマの横を通り過ぎたルードヴィヒは扉に近づき、立てかけてある平衡傘に手を伸ばしてゆっくりとした動作でそれを開くと、彼にそっと差し掛ける。
「ほら、こうしてしまえば誰にも見えない」
 ホフマン結びの柔らかい光が傘下の二人を包み込んだ。
「……はは……随分と、ロマンチストなんだな。あんたは」
 そう小さく呟いたエニグマの頬に一筋の雨粒が伝い落ち、無機質な床に吸い込まれていった。

- THE END -