Thinking Break

 スーツケースの一画に据えられたキッチンにはバニーバニーが用意した軽食やお菓子が所狭しと並んでいる。ここで働いたり体を休めている財団職員や研究員たちのために常に用意されているものだ。
 そろそろアフタヌーンティーの時間なのでメインホールにこれらを持って行こうかと腕まくりをしたバニーバニーはキッチンの入口に人影を見た。いつも口元をマフラーで隠したシャイな女の子。
「あら?ミス・マーカス、こんにちは!」
「こ、こんにちは。ミス・バニーバニー」
 声をかけられ、遠慮がちにキッチンに入ってきた彼女は何かを探すように視線をキョロキョロと動かしている。
「なにか欲しいものが?」
「はい……その、コーヒーを淹れたくて……」
「珍しいですね、あなたはいつも紅茶を飲んでいるのに」
 コーヒーなら先ほど保温性のポットに入れたばかりだ。カップとソーサーを食器棚から出して手際よく注ぎ、彼女に渡す。柔らかい湯気とともにコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「砂糖とミルクは要りますか?」
「ありがとうございます、ミス・バニーバニー。……ただ、これは私が飲むものではなくて、ミスター・エニグマに持って行こうと思って。なのでその二つは必要ないかもしれません」
「ああ!ラプラスの責任者になってからさらに忙しそうにしてますからね!」
 バニーバニーは、いつも目の下にクマを作っている黒髪の男性の姿を頭に浮かべた。彼はのっそりとスーツケースに来てはあてがわれた自室にこもって、一日中姿を見せないこともある。とはいえスーツケースは常に静寂を保っているわけではない。むしろそんな日は月に数回あるかないかだ。
その証拠に先日彼から壁の補強申請と防音材の購入リストを渡された、とタイムキーパーが苦笑いしていた。
 バニーバニーも直接話す機会は滅多にない。たまにコーヒーを淹れにキッチンに立っているのを遠目に見ることはある。
バニーバニーの言葉にマーカスは小さく頷いた。
「ここにいる時くらいは私ができることをしたいなって、思ったんです」
 タイムキーパーから今日はミスター・エニグマが来ているよって教えてもらったのもあるんですけどね、と彼女は照れ笑いを浮かべながら付け加えた。
 エニグマとマーカスに浅からぬ縁があることは小耳に挟んでいる。彼も彼女の来訪であれば邪険にすることもないだろう。
「他にもいるものがあったら遠慮なく言ってくださいね!足りないものがあれば申請してくれればいいってタイムキーパーからも言われてますから!」
「分かりました」
 お互い緩やかな空気が流れたところで、バニーバニーははた、と気づく。
「そうだ、トレイ要りますか?」
「あ、そうですね。お借りしてもいいでしょうか」
 ソーサーで支えていても熱々のコーヒーを持ったまま転けたりしたら大惨事だ。キッチン用具が入った引き出しを漁り、コーヒーカップが二つ載る程度の正方形のトレイを取り出した。空いたスペースにもうひとつソーサーとカップを追加しタイムキーパーやソネットもよく飲んでいる紅茶を注ぐ。
それを見たマーカスはキョトンとした表情を浮かべる。
「あの……?ミス・バニーバニー、それは……」
「もうすぐアフタヌーンティーの時間ですから、少しくらいお話しても罰は当たりませんよ!」
 ウインクしたバニーバニーにマーカスも小さく笑った。

§

書類、会議、書類。
ラプラスの代理責任者から「代理」が外れてから、エニグマは多忙極まりない日々を送っていた。以前より比べ物にならないくらいに。
 本当はスーツケースに来ている場合でもないのだが、財団の会議に出席した後コンスタンティンとレディZに捕まり、懇々とストーム対策事案におけるラプラスの研究内容と予算案について質問責めに遭い(数刻前の会議で話したはずだが)、すぐラプラスに戻る気にならず気晴らしのつもりでスーツケースに来た。
 しかしスーツケースにあてがわれた自室は来てまだ日が浅いにもかかわらず、すでに書類の山脈を形成している。
「はぁ……」
 結局休む暇もなく、ここでも黙々と取るに足らない事務作業に追われている。
連日の寝不足が祟ってか目が霞む。手にした万年筆で眉間を執拗に揉んだ。
 メディスンポケットから試薬として提供された「神秘術増幅剤」を一気に口に含みたくなる衝動に駆られたが、そんなことをしても効率が上がるどころか何をしでかすか分からない似非ドーピング神秘学家が出来上がるだけだ、と頭を振って思いとどまった。
 いっそ眠ってしまいたい。だが今寝てしまうと夜になってしまいかねない。
「コーヒーを淹れに行くか……」
 そう独りごちて書類を踏まないよう椅子から立ち上がったところで、扉からゴン、という鈍い音が聞こえた。
「……?」
 ノックというよりも固い何かが当たったような音だ。エニグマがいる部屋ではなく別の部屋からの音かと思っていると、今度は明確に目の前の扉から同じ音がした。
 ここを訪ねるような人間、否、神秘学家はそういない。
エニグマがスーツケースに来るようになったとはいえ、他の神秘学家──特に財団側の神秘学家とはまだ面識もそこまで多くない。
 訝しみならもドアの向こう側にいるであろう存在に返事をしてみる。気のせいであればそれまでだ。
「……誰だ?」
 すると聞こえてきたのは、ノックを忘れがちなタイムキーパーでもラプラスのやかましい同僚の声でもなかった。
『み、ミスター・エニグマ。マーカスです……その、お忙しいところすみません、扉を開けていただけると助かります……』
「ミス・マーカス?」
 確か数日前に外勤任務に向かったとセンメルワイスから聞いていたが戻ってきたのか。
 ノブに手をかけて扉を開くと、そこには焦茶色と琥珀色の液体が入った二つのカップが載ったトレイを持つ、エニグマの見知った財団調査員がそこに立っていた。
「今日ここにいるとタイムキーパーからお聞きして……。コーヒーを差し入れようと思ったんです。ただ、両手が塞がってしまうのを考えていませんでした……」
 先ほどの音はどうやら持っていたトレイの角で扉を叩いたようだった。トレイに少しだけ液体が溢れているのが見える。床に置くか、片手で持てばよかったのでは、とエニグマは思ったが、それについて言及するのはやめた。おそらく彼女はそんなに器用ではない。
「ちょうどコーヒーを淹れに行くところだった、ありがとう」
 恐縮しきりのマーカスを部屋に招き入れ、彼女からトレイを一旦受け取り、かろうじて空いている机の片隅に置くと、彼女のために淹れられたであろう紅茶のカップを持ち上げ目の前に差し出した。マーカスはおずおずとそれを受け取る。
「あ、ありがとうございます」
「予備の椅子が無くて悪いが、ご覧の通り置ける場所がないもんでな。適当に座ってくれ」
 そう言いながらエニグマ自身はコーヒーカップを片手に壁に寄りかかる。
「いえ、立ったままで大丈夫です。踏んだり崩したりしたらいけないので……」
マーカスもそれに倣い、隣に並んだ。
「そうか」
 しばしの沈黙。話術に長けていないもの同士、話をどう切り出したものかを逡巡するような空気が流れ、今日に限って部屋の外からの騒音も話し声も遠く、窓からは柔らかい陽光が二人を照らしていた。
「……いつ、戻ってきたんだ?」
 珍しく先に沈黙を破ったのは暗号学者だった。
「へ?」
 前置きもなく何を問われたか分からず、マーカスは間の抜けた返事を返した。エニグマはその反応に笑うでもなくむしろ気まずそうに言葉を紡ぐ。
「いや……少し前にミス・センメルワイスから外勤任務に出ていると聞いていたんだが」
「あ、そうだったんですね。私だけではなくて他の外勤調査チームの方々とドイツへストームの事例調査に行っていました」
「ドイツか……」
 マーカスの言葉に柄にもなく郷愁の念に駆られたエニグマは目を細める。もう何年も故郷の土を踏んでいない。どのみち帰ったところで迎えてくれる両親も、グレタももういないのだ。住み慣れた家だってあるかどうかも怪しい。
「ミスター・エニグマ?」
「……なんでもねぇ」
 そう言って再び口を噤んでしまったラプラスの責任者に、若い調査員は小首をかしげた。
 エニグマはどうにも彼女を前にすると言葉に詰まってしまう。先日ウルリッヒにも似たような指摘を受けた。『キミはマーカス調査員に対して、普段のキミからは違った側面が出てきて興味深いですね』などと言うから余計に意識してしまう。グレタの生徒だからといって接し方を変えているわけではない。
 しかしウルリッヒだけではなく他のラプラスの研究員たちからも言われる始末だ。エニグマ自身は普通にしているつもりだが、彼女を前にするといつもの皮肉も形をひそめ、毒気を抜かれてしまうのは確かだった。
 彼女を財団とラプラスとの調整役に抜擢したらどうだ、と言われたこともあった。当然その提案は断った。
 彼女は神秘学家として力は充分にある。それどころかウィーンでの一件以降、エニグマの記憶にあった彼女の印象は現在ではすっかり変わり、おもちゃ箱の調査に同伴させた時も頼もしい姿を見せた。神秘術の発動に未だ薬に頼らざるを得ない人間とは比べるべくもない。
 そんな優秀な調査員をくだらない内部政治の混乱に巻き込むのは絶対にあってはならない。グレタだって、望んでいないはずだ。
 散漫に思考を巡らせていた暗号学者は軽く頭を振る。
やはり今日はあまり頭が回らないらしい。ごまかすように二口目のコーヒーを口にしたところで、今度はマーカスが話を切り出した。
「ところで、外勤任務中に不思議な本を見つけたんです」
 足元に置いてある愛用のライティングボックスをゴソゴソと開けるマーカスにエニグマはやや不安そうに尋ねる。
「それは俺が聞いても問題ない内容か?」
 財団の機密保持とやらが頭をよぎるも、当の本人はあっけらかんとして一冊の本を暗号学者に差し出した。
「大丈夫です、むしろミスター・エニグマに見ていただきたくて!……あ、でもお仕事のお邪魔にならないといいのですが」
「気にしなくていい、今日の仕事は終わりだ」
 これくらい許されるだろう。エニグマはすっかり目の前の本に興味を示していた。
 マーカスが手にしている本は、彼の目から見ても臙脂色の布地で装丁された、何の変哲もないハードカバーの本だ。気になる点といえばタイトルが書かれていないことくらいだろうか。
 カップを手近の書類の山の上に置き、彼女から本を受け取って表紙を開こうとした。しかし本来なら造作もないはずの動きの一切をその本は受け付けない。
 目一杯力を入れて開こうとしても曲がることもなく、強力な接着剤を塗りたくられているかのように頑なに開かれることを拒んでいるそれは、どう考えても紙の強度を逸脱していた。
「……どれだけの怪力でも開くことは難しそうだな」
 指先に力を入れすぎた暗号学者は手を軽くパッと振る。
「はい、どうやら強力な『鍵』のような神秘術が施されているようで……」
「あんたの『閲読』でも分からないのか?」
 マーカスの神秘術である『閲読』は物であれ人であれ、その本質をページとして読み解くことができる。そんな彼女ですら難しい代物など凡人の手に余ってしまう。
いや、先ほど彼女は何と言ったか。
──『鍵』。
 エニグマは自らのコートのポケットに常に入っている小さな金属缶に手を伸ばす。常用は避けたいところだが、もし神秘術で『鍵』がかかっているのなら使用するのもやむなしだ。
そんなことを考えていると若い調査員の声が思考を断ち切った。
「いえ、閲読自体はできたのですが、よく分からないアルファベットの羅列が出てきまして……もし、これがいわゆる『暗号』ならミスター・エニグマにと」
「……なるほどな」
 解読に時間はかからなさそうな気はしたが、狭い自室で立ったままやることでもない。それにこの場所で彼女を待たせるのも少々気が引けた。
 エニグマはすっかりぬるくなってしまったコーヒーを一気に飲み干し、空のカップをトレイに載せると自室の扉に足を向ける。
「場所を移そう」

§

 幸い、歓談室には誰もいなかった。
四隅を書棚に囲まれた、部屋の真ん中のソファに向かい合って座った暗号学者と若い調査員は、テーブルに鎮座している一冊の本を注視している。
「さて──早速だが『閲読』で見えた文字を教えてくれ」
 エニグマは万年筆と手帳を手にマーカスの言葉を待つ。促された若い調査員は微笑み、それに応えた。
「分かりました!では読み上げますね── D・E・T・Z・E・W・G・S・D・S・I・L・R・I・A・E ──です」
「わかった」
 読み上げられたアルファベットを手早く手帳に書き込んだ暗号学者は思考の海に潜る。
「本のタイトルか何かか?いや、……」
 ブツブツとつぶやきながら手帳と睨み合うエニグマの姿を、マーカスは黙って見守っていた。
 ふと、歓談室の扉が開く音がしてマーカスが振り向くとそこにはヴェルティが立っていた。座っている二人に気づき一瞬入るのを躊躇っていたが、マーカスが小さく会釈したのを見てそっと扉を閉めて部屋に入り、彼女の横に座る。
「なにしてるの?」
 ヴェルティはエニグマの思考を乱さないよう小声でマーカスに耳打ちして尋ねた。マーカスもそれに倣って答える。
「外勤任務で回収した本に神秘術でかけられた『鍵』がついていて……その解読をミスター・エニグマにお願いしたんです」
「そっか。……楽しそうだね」
 手帳に忙しなく万年筆を走らせている暗号学者は観覧者が増えたことに気づいていない。そんな彼の口元は少しだけ綻んでいるようにも見えた。
「はい。少しでも気晴らしになったのなら、よかったです」
 時折、顎に手を当てて考え込む仕草を数回挟んだのち、彼は手帳から顔を上げた。かかった時間は十分ほどだ。
「……よし。ミス・マーカス、これを読んで──って、タイムキーパー?」
「こんにちは、ミスター・エニグマ」
 ひらひらと手を振る突然の来訪者にエニグマは呆れたようにため息をつく。
「相変わらず神出鬼没だな」
「集中しているようだったから、邪魔したら悪いかなって」
「お気遣いどうも。いいタイミングだな、面白いものかつまらないものか見ものだが──」
 そういってひと仕事終えた暗号学者は彼女たちに手帳を差し出す。まっさらなページに解読した言葉が書き記されていた。
「俺が読んでも効果がないかもしれないからあんたが読んでくれ、ミス・マーカス。ドイツ語は分かるか?」
「ええと……そうですね、昔ドイツ語の文献を読むために辞書を引いたことがあります。発音が間違っていたら訂正してください──『Der Weg ist das Ziel.』?」
 若い調査員の口から辿々しく紡がれた言葉が本に注がれる。

──カチリ。

 目には見えない錠の開く音が、確かに三人の耳に届いた。
マーカスが本に手を伸ばし、表紙に触れるとそれはあっけなく開く。本の扉には掠れたインクでこの本の持ち主と思われるサインが書かれていた。
「『道そのものが目的である』。なんとも詩的な言葉だが、強固な神秘術をかけるほど国が揺らぐような機密情報でも書いてあるのか?」
 やや鼻で笑う暗号学者に、若い調査員も苦笑いしてページをめくる。
「中身は日記みたいです」
 タイムキーパーも覗き込み、感心した様子でうなずいた。
「日付を見ると律儀に毎日書いているね、ひとつひとつの内容は短いものだけれど。それにしても……さすがだね、ものの数分で解いてしまうなんて」
 解読された本から興味が薄れたのか、書き殴った手帳を仕舞い、ソファにもたれるように座っていた暗号学者は顔を上げ、ヴェルティの言葉に対し怪訝な表情を向けた。
それはエニグマにとって呼吸のようなもので、称賛を向けられることではないからだ。
「これくらいは朝飯前ですらないな」
「どうやって解いたの?参考までに教えてもらえないかな」
「それは構わないが……そうだな……」
 エニグマは仕舞ったばかりの手帳を再び取り出し、数秒考えてから書き込んで、ヴェルティに見せた。そこには『VRIETN』というアルファベットが書かれている。
 ひと通り日記を読み終えたらしいマーカスも本をテーブルに置き、二人の会話に混ざってきた。
「これが例題だ。まあ、これだけ短いとあんたらみたいな聡明なやつは既に察しはつくだろうが、今は飲み込んでくれ」
 二人が小さく頷いたのを見てエニグマも頷いた。
「続けるぞ。一見アナグラムに近いが今回のこれはちゃんと規則性がある。まず文字数を見る。その次に文字の種類だ、これはアルファベットだけだな。この程度の長さならまず古典暗号を疑う……古典暗号がなんなのかは後で調べるなりしてくれ。文字を別の文字に置き換える暗号もあるし、並べ替えるだけの暗号もある。それでいくつかの古典暗号と照らし合わせて、『レールフェンス暗号』を試してみたんだ。……ここまではいいか?」
「はい、大丈夫です!」
 瞳を煌めかせながら話を聞いている若い調査員に少々圧倒されながらもさらに説明を続けた。
「タイムキーパーも大丈夫か?……大丈夫そうだな、よし。これで使われている暗号が推測できればあとは試すだけだ。レールフェンス暗号は文字をジグザグに並べて読む、いたってシンプルな古典暗号だ。だからこの言葉をこの法則に則って解読すると──」
 エニグマは先に書かれた例題の下に交互にアルファベットを書き込んだ。

V R I
 E T N

「こうなる。そしてこれをさっき言った、ジグザグの経路に沿って読むと──『VERTIN』。タイムキーパー、あんたの名前だ」
「わぁ…!」「おぉ…」
 二人の少女が感嘆の声を上げて暗号学者に拍手を送った。少々照れたような表情を浮かべた彼は思い出したかのように付け足す。
「レールフェンス暗号は段数があって、当然この段数が多ければ多いほど複雑になる。これは二段だが、さっきの日記帳は三段で簡単ではないが難しくもないレベルだ。とはいえラプラスのコンピュータがあればもっと時間は短縮できただろうな」
 エニグマの言葉に、ヴェルティは小さく首を横に振る。
「謙遜は不要だよ、ミスター・エニグマ。責任者という任に就いてもあなたの歯車は全然錆びついていない」
 おそらく他意はなかったであろうタイムキーパーの言葉に、暗号学者は一瞬瞠目したのちに穏やかに笑う。
「……はは、そうか」
 なんということもない暗号を解いただけだったが、そのひと言は彼にとって充分すぎる激励の言葉だった。

§

 しばらくたわいのない雑談をしていた三人の時間は通信機の着信音で終わりを告げた。
『アドラー研究員!今どこで油を売ってるんです?!』
 着信ボタンを押すやいなや、磁性流体の怒声が少女二人の耳に届くくらいの音量で響き渡る。顔を顰め、通信機を耳から遠ざけたエニグマは、相手がひと通り文句を言い終えたタイミングで返した。
「俺の今日の仕事は終わってんだよ、金魚鉢頭」
『それはなんの冗談です?キミはまだ就業時間中のはずだ!』
「むしろ仕事はやっていたさ。ミス・マーカスからの神秘術アイテムの暗号解読という非常に重要な依頼をな」
 いたって真面目なそぶりで答える暗号学者の様子に、タイムキーパーと若い財団調査員は顔を見合わせてクスリと笑っている。
『マーカス調査員?キミ、まだ財団に……いや、まさかスーツケースにいるんですか!?会議はどうしたんです!』
「終わった後に決まってんだろ。ちなみにタイムキーパーもいるぜ」
『仕事は山積みなんです!さっさと戻って来てください!』
「んなこた俺が一番分かって……」
 通信機からはくどくどとウルリッヒの小言が止まる気配が無かったが、エニグマはそれを無視して通信を切った。
「ハァ。騒がしいったらありゃしねぇ」
 暗号学者はため息をつくと通信機を仕舞い、渋々といった素振りでソファから立ち上がる。
「解読ありがとうございました。今度なにかお礼を──」
 マーカスも見送ろうと立ちあがりかけるのを、エニグマは座ったままでいいと手で制した。
「気にしなくていい。……ああ、そうだ。礼というなら、神秘術について時間を見つけて調べているんだ。ただどうにも文献だけだと要領を得なくてな……実技込みで教えてもらえると助かる。うちの連中相手だと話が進まなさそうなんでな」
 ラプラス研究員の講義は学生の頃に聴講したことはあるし、教えること自体は問題ないだろう。ただそれは『同僚でなければ』の話だ。言葉の応酬でまともな講義どころではなくなりそうな想像が容易にできてしまい、エニグマは思わずため息をつく。ヴェルティも似たような想像をしたのか苦笑いを浮かべた。
「分かった、教えるのが得意そうな人に声をかけておくよ。ソネットは昔から教えるの上手いし、カーラ・ボナーは教壇に立っていた経験もある。……それこそミスター・ルードヴィヒに聞いたらいいのに。彼はケンブリッジ大学で教鞭を取っていたし、それこそ本職だ」
 ヴェルティの何気ない提案に暗号学者は苦目キャンディを噛み砕いたような表情になる。
「ミスター・ルードヴィヒの神秘術は言語に関するものだ。彼自身で制御はできるだろうが、どんな影響があるか分からない。財団職員限定で頼む」
「じゃあ、レディZは?昔馴染みだって聞いたけれど」
「え!そうなんですか?」
 レディZとはたまに財団で話すこともあるが、まさかエニグマと縁があるとは思っていなかったマーカスは初耳の情報につい前のめりになった。
「ミス・マーカス……あんたも乗ってくるんじゃない。ただずいぶん昔に少しだけ仕事を共にしたってだけだ。それにそもそも彼女はコンスタンティンの伝書鳩で、俺に構っている暇なんてない」
 ウンザリとした表情と共にそれ以上の言及を避けた暗号学者は、二人に背を向けて歓談室の入口へ歩を進める。
「まあ、本当に時間がある時でいい。俺だっていつ時間が取れるかも分からんからな」
「そうだね。でも無理は禁物だよ、ラプラス総責任者さん」
「また、お話しましょう!」
 タイムキーパーとマーカスから投げかけられた言葉にエニグマは返事の代わりにひらひらと無言で手を振って、歓談室を後にした。

- THE END -