ねこときまじめ

夏目先生の能力が判明する前に書いた捏造過去話。knkdさんBD記念に。

 遠く響く貨物船の汽笛を聴きながら、国木田独歩は防波堤に1人座って糸を垂らしていた。
普段は教鞭を取り、学生達に頭を悩ませ慌ただしい日々を送っているが、偶の休日にはこうして釣りに勤しんでいる。こうして無心になれる時間というものも悪くはない。当然時間は手帳に書き込んだ予定通り決めた上で、である。
視線を巡らせると道を挟んだ向かい側には洗濯物を忙しなく窓際に干す者や、のんびりと散歩をしている老人の姿が見える。
「……む」
 釣竿の先の浮きが一瞬沈み、当たりかと思い糸を引き上げると先にあるはずの釣針が消えていた。逃がしたか、と持ってきていた釣り道具の箱を確認すると、餌はあるものの肝心の針を切らしていた。運が悪いことに近くに釣具店は無い。時計を確認すると未だ始めて十分も経っておらず、予定では1時間行うことにしていた。自分としたことが、と国木田は小さくため息をつく。手帳の頁を無駄にすることになるが、時間の消費も無駄にしたくはない。二兎を追う者は一兎をも得ず、だ。
異能を使いこなす練習にもなる、と一体何の本番を想像してか嘲笑いつつ、胸ポケットに収まっているボールペンを取り出して手帳に「釣針」と書き込んで念を込め破る。
「独歩吟客ーー釣針」
 瞬間、手にした頁が蒼く光ったかと思うと、掌には小さな釣針が鎮座していた。
 何時からこの異能力が己に宿ったかは知らない。自覚しないままの者も居るというから、若しかしたら幼少期の頃から、否、生まれ乍らにして持っていた才能ともいえるかもしれない。国木田は掌上の釣針に糸を結び、餌を付ける。釣竿を構え海に投げようとした刹那、どこからか微かに何かの声が聴こえて振り返った。
 しかし鳴き声の主の姿は見えない。気のせいかと思い、再び釣り竿を持ち直した。すると今度は更にハッキリと鳴き声が聴こえる。どうやら三歩先ほどの岩陰から聴こえるようで、国木田は釣り竿を足元に置き、その場所へ歩を進めた。覗き込んだ其処には、
「!……猫か」
 黒い成猫が岩場の隙間に挟まっていた。もう少し歩いて砂浜に行けば猫が掴まれそうな流木くらいは落ちていそうだが、残念ながら現在国木田がいる場所は防波堤で、猫がいる直ぐ下は海である。流木など探しているうちに落ちてしまうかもしれない。見ているうちに心なしか悲しそうな顔をしている気がしてきた。
 動物は好きでも嫌いでもないが、見てしまったものは仕方がない。幸い手を伸ばせば届きそうな距離ではある。逆に警戒して掴まられなければどうしようもない。国木田はその場にしゃがみ、猫のいる隙間へ腕を差し込んだ。
「助かりたければ掴まれ。俺も暇じゃないんだ」
 通じるとは思っていないが、云わずにはおれなかった。なぜならこの時既に十五分も経過していたからである。するとその言葉が通じたか定かではないが、隙間に挟まっていた猫は前足をそろりと岩から離して腕をよじ登り始めた。登る度に着ているシャツへ爪が貫通し、国木田の肌を刺す。
「……っ、あまり爪を立てるな。さっさと登らんか」
 そんな一方的なやりとりの末、猫は国木田の肩まで登った後、防波堤側に着地した。
 警戒して直ぐに逃げると思っていたが、何故か猫は其処から立ち去らず、国木田の顔をじっと見ている。かと思うと、今度は脚に擦り寄ってきた。尾を絡めたり、ぐりぐりと顔を押し付けたりしている。ズボンが黒いおかげで見えないが、毛が大量についていそうである。よく見ると何処かの飼い猫だろうか、首には紅い彩帯(リボン)をつけていた。なかなか立ち去らないところをみると、よもや餌をねだっているのではないのだろうかと思えてきた。
「悪いが、お前にやるような餌も魚も持ち合わせていないぞ」
 国木田は屈むと小型のバケツを律儀に猫に見せ、そこに魚が入っていないことを確認させた。しかし猫はバケツを一瞥しただけで、とことこと先ほど国木田が居た場所へ歩いていき、放置している釣竿の釣針に興味を示した。小さな丸い手を伸ばし触れようとしたが、国木田が慌ててそれを制した。
「っ、おい、怪我でもしたら如何する。危ないだろう」
 しかし猫は手を出されても怯むことなく釣針をじっと見つめている。国木田はひとつため息を吐いて猫を見下ろした。
「釣針なんて珍しいものではないだろうが」
「ニャア」
 若しかしたら先刻異能で出したところが見ていたのかもしれない。何時からそこに居たのかも知らないのだから。しかし仮にそうだったとしても、猫が「彼の人がこれこれこういう異能を使っていた」などと態々(わざわざ)飼い主に報告する真似などするはずもない。この猫が人間の言葉でも喋るなら話は別だが。
其処まで考えたものの、国木田は己の莫迦げた妄想を飛ばすように首を振る。
「兎に角、誰かに構ってもらいたいなら他所を当たるんだな。全く……二十分も時間を消費してしまった」
 国木田は腕時計を苦々しい表情で見つめそう言うと、猫に背を向け、海岸に向き直り釣りを再開した。

◆

「……」
 糸を垂らして十分。相変わらず魚が釣れる気配はないが、どうにも背中に視線を感じる。ちら、と軽く後ろを見ると猫はまだ其処に座っていた。
先ほどはやたらとすり寄ってきていたが、国木田が釣りを再開すると構ってほしい素振りを見せることもなく、かといって餌を乞うでもなくまるで置物のようにじっとしている。
ーー此方が観察されているようだ。
 いやいや相手は猫だぞ、と再び頭によぎった考えを振り払う。それにしても落ち着かない。釣れないのは毎度のことだが、今日に限ってはこの猫が居る所為で釣れないような気がしてきた。時計を見ると残り十五分で切り上げなければならない時間になっていた。いい加減追い払ってしまおうかと振り向こうとしたその時だった。
「ナツメセンセイ、ここに居られましたか」
 突然背後で声がした。国木田は驚きのあまり思わず声を上げそうになった。何の気配も感じなかったため、遂に猫が人間の言葉を発したと思ってしまったからである。しかしすんでのところで飲み込んだ。
 猫が喋っていたのではなく其処には男が居た。着流しを着た銀髪のその男の目つきは鋭く、さしもの国木田も気圧されてしまった。
『ナツメセンセイ』と呼ばれた黒猫は、ニャアと鳴くと先ほどまでの置物風情はどこへやら、唖然としている国木田の横をするりと通り過ぎ、その男の元へ足早に歩いていった。
「……邪魔をしたな」
「い、いや……こちらこそ……?」
 猫に敬称を付けて呼んでいるとか、飼い主と猫のギャップがありすぎるとか、国木田の頭の中では色んな疑問が渦巻いていたが、如何返せば良いか分からないまま、結局口から出たのは間抜けな返事だけだった。しかし男は国木田のそんな様子も気にせず、ぽつりとそう云うと踵を返し再び来た道を戻っていった。ナツメセンセイと共に。

end.